長かった会議の問題点と経営者のだめなところを考えてみた
これを書いているのは、“元・会社員”なわけです。
朝の7時に起き、そのまま水とコーヒーを胃に流し込んで、そのままヒゲをそって洗顔をする。
気づけばスーツを身にまとっていて、渋谷に向かってぐるぐるまわる路線に乗る。
今思い返せば「長い通勤時間だったなぁ」とも思うのですが、それ以上に“長い”と感じていたのが、「会議」でした。
これを書いている人が務めていたのは、広告代理店。時代はもちろん、紙ではなく、電磁波を発する画面専用の広告です。
ある程度の管理職であった「私」の月曜日のスケジュールは以下のようなものでした。
◆月曜日のクソ不毛な会議の時間が始まる月曜日
起床:6時
いつもより早い起床です。
通勤:7時
結局二度寝することが多く、コーヒーを飲む時間にあえて15分かけていました。
出社:7時45分
取締役との打ち合わせ(30分)
トイレ(10分)
役員会議:8時30分~
役員だけの会議です。眠いので半分意識が飛んでいます。社長から怒号が飛んで来るので、笑顔は忘れません。
全体会議:9時30分~
社員全体での会議です。たまに進行役もします。それ以外は死んだ顔をしています
チームミーティング:10時15分~
全体会議が終わった15分後に、チームミーティングが始まります。
これをかいている人は、メディア広告営業の部門でした。
~
会議終了:12時
月曜日の午前が終わりました。もちろん、Gmailのメールボックスには100を超える未読メールが溜まっています。
たまに会議中に私信でメール飛ばしまくりますが、ご飯食べることができません。
社畜かな?
その後もメール処理をしつつ、部下への指示・相談などで落ち着くのが16時頃でした。
もし仮に月曜日の午前の会議が2時間短縮できていれば、ご飯を食べることができたはずです。
ちなみにこれを書いている人は嫌煙家ですが、愛煙家の方は僕より2時間は遅く退社します。
どうせなら、会議時間は短く、コンパクトで濃厚なべきなのですが、日本人は会議で“仕事をした気”になることが多いんですね。
で、いろいろと調べて結論付けると、こうなります。
●アジェンダの作成の工夫
●短時間の会議を増やして議題をためない
●チャットワークやSkypeなどの有効活用
出典:
結局、会議は「なんのためにあるのか」を経営陣もわかっていないんですね。
数字を上げたければ、もっと会議の時間を短縮させて、仕事をさせるべきなんです。
ただ、放置だけでは従業員は仕事をしません。サボります。
経営陣にとって必要なのは、その場その場で2分でもいいので、ミーティングを開くことです。
その際に必要なのが「ホワイトボード」。
いつでも、どこでも会議ができるように、ホワイトボードはオフィスのあちらこちらに置いておくことをおすすめします。
脳を刺激して、仕事を“していただく”という姿勢が従業員に伝わらないと、従業員の多くが、「自称:社畜」になってしまいます。
要は、生産性を上げるのは「仕事術」ではなくて、「経営術」です。
他にも、Skypeやチャットワーク、ハングアウト、LINEを使って会議を開けばいいのです。
現代では、パソコンと通信環境さえあれば会議を開くことは可能です。何も、会議室に一同が集まって議論をするという方法だけが会議ではありません。
たとえば、チャットワークやSkypeであれば、グループトークも容易に行えます。もしそれぞれの部署やチームが離れている場合でも、ビデオ通信をすればその場で“何の会議をしているか”は一目瞭然です。
チャット上で発言をすることにより、急な対応があったときに会議を離脱しても、残ったチャット履歴を見れば“何の会議をしていたか”を把握することができます。「会議があるけれども、出先で大事なアポイントが急きょ入ってしまった」などというときも、スマホでチャットの様子を見ることができ、場合によってはスマホからの提言も可能です。
出典:
スカイプやゲーム機のPS3でもテキストチャットは可能です。そのくらい、私達にとってテキストチャットは、身近でお手軽な存在になっています。
出典:
テキストボックス(チャット)
参加者全員と文字によるメッセージを共有できるチャット機能です。
発言者の名前と日時が表示され、テキスト形式で保存もできますので、会議の議事録作成にも適しています。
文字の大きさや色、フォントを変更することも可能です。出典:
ちなみに多くの企業で取り入れているのは「チャットワーク」か「Skype」でしょう。
ただ、チャットワークの場合はビデオ音声の状態が悪くなりやすい点がネック。
そして、Skypeはグループチャットがしにくいといった難点があります。
どちらにせよ、「会議の時短」という意味ではオススメなので、経営陣はご検討されてみてはいかがでしょう?
チャットワーク
働くために生きるのか、生きるために働くのか、それが問題でしょうか。